2019年10月16日

第73回日本人類学会大会 三日目 10/14(月)

 大会3日目の最終日は午前中の発表のあと、会場を1.5Km離れた佐賀美術館大ホールに移して、一般人向けの人類学講話として「公開シンポジウム」を開催して、全ての課程が終了する。会期中、九州佐賀は好天期に恵まれ、本土、特に関東以北を完璧にまで荒らし尽くした台風19号の嵐の影響を全く受けなくて済んだのは不幸中の幸いと言える。とはいえ、こちらにいる側は安心に発表を聞けたものの、自分たち自身の所属する日本列島各地では、河川の氾濫が戦後初めてといえるほどの被害があり、政府も早速「激甚災害」に指定する方針を早々と公表するなど、今回こちらに参加した人々も、被害地のことを感じつつ参加していたので、なかなか心ここにあらず的な状況だったことは確かである。
 月曜日、大会最終日の各セッションは弥生を中心としたまとめになっており、比較的素人の私にも分かりやすい内容になっていた。大会参加者の中には、午前中の話を聞き終わると、早速、郷里や所属する機関に帰郷する人も多かったが、午後のシンポに顔を出す人も勿論多数みられた。
 3日間の大会期間を通じて、今回、台風による影響で来られなかったと思われる先生方は次の通り。
石田肇、足立和隆、岩本光雄、馬場悠男、溝口優司、坂上和弘、片山一道、住 斉、尾本恵一、岡田守彦、鈴木隆雄。
 大会中に多くの質問をした人としては次の先生方が目についた。
五十嵐由里子、河内まき子、海部陽介、久保大輔、太田博樹、松村博文、石田英実、諏訪元、近藤修、米田穣、篠田謙一、神澤秀明、斎藤成也、安達登、木村亮介。

第73回日本人類学会大会 二日目 10/13(日)

10/12(土)は台風19号が東海地方から北陸、関東、東北地方まで広く災害を及ぼし、航空便は全便休止、
陸路の関東を根城とするほとんどの線が休止となった。おかげで、人類学会始まって以来といえるほど、出席予定者のキャンセルが目立った。今日二日目の大きな課題は、法人化問題を総会でどう解決出来る方向へ導くか、という問題と、セミナー終了後の懇親会、そこで若手会員大会発表賞を誰が手にするか?さらに、ポスター発表賞は2名が誰になるか?という問題が課題であった。
 法人化についての課題が多く、いつもなら1時間程度の総会だが、今回は2時間半が総会開催時間にとられていた。それでも、終わって見ると個々のセミナーなみに白熱した議論があり、個々のセミナー同様のあつい議論が噴出した。議長役を含む総会の指導部10人程度(理事が多い)が、議員である我々聴衆をしたから望む構成はいつも通りだが、今迄にその理事役を経験した人々から癖のある質疑があり、議事はなかなか進まなかった。癖といっても、何癖をつける癖ではなく、この人類学会の組織運営を法人とするためにどうしたらうまくまとめられるか、また、議事の運営上、決めるべき議事に誤りは無いかなど、手続きに関する問題も含んでなかなか進まない。

 外野からみたらば、こうした理事の方々が、普段の人類学会の学問上の指導者でもあり、大学を初めとする研究機関でそれぞれの役割を果たしておられる上に、学会誌への投稿、査読、という大切な役割もあり、さらにその上にこうした大会での議会運営、予算設定、なども行っておられるのを見て、まったく頭が下がる思いがする。

 日曜日の発表はそれほど頭に残るものが無かった。また、ポスター発表も台風で来場出来なかった人が多くあり、歯抜け状態だったので、何となく活気のない会場風景となった気がする。

 夜になり佐賀大学の学生食堂で懇親会が始まった。いつもなら、司会者の声があり、大会会長らの演説、乾杯の挨拶と音頭があってからビールを抜くのにもかかわらず、今回は、会場に着くや否や、皆が勝手に栓を抜いて
自分たちでカップについで飲んでいる。そんなに日中の温度が高くて喉が渇いていた訳ではないのにやや我慢が足りないぞと思った。
 会場では約2時間半を過ごしたが、最期の一時間あたりから、若手会員の優秀者の発表があった。いつもなら2名と決まっているのに、今回は特別に成績の良い人が多く、最期迄もめた結果、賞を3名に送ることになったと大会会長の篠田先生からいきさつについての説明があった。続いて、ポスター賞の発表が2名分あり、最期に来年の大会会長予定者の安達登先生から挨拶があった。その時点で初めて来年の大会期間の発表があり、11/1-2-3だと公表された。安達先生は山梨大学医学部で法医学を教えておられる先生だ。どちらかと言えば、形質よりDNAの研究を得意とするように思われる先生だ。4回も頼まれて、その度に大会会長を断ったあげくに引き受けることになったので、皆さん、来年会場に来る時は、何だこんな田舎に呼んでなんて言わないで下さいね、と前置きされているのが印象的だった。
 帰りは会場から3台の大型バスが手配されており、佐賀市の飲屋街で一回止まり、最終は佐賀駅まで送って下さったので助かったが、何と今日の昼間の総会で活躍した先生方が(斎藤先生、河野先生、海部先生ら15名ほどの先生方が、途中の繁華街といわれるところで下車されて行った。まいいではないか、本当いつも縁の下の力持ちで大活躍しておられるのだもの、年一回の大会で少しくらい飲んで気が休まるなら、と思わずにはいられなかった。
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第73回日本人類学会大会公開シンポジウム

2019年10月14日14時〜16時
 佐賀県立美術館ホールにて第73回日本人類学会大会公開シンポジウムが開催された。
タイトルは『弥生人とは誰か』 考古学・人類学が明らかにする最新弥生人像
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 司会の佐賀大学医学部解剖学教室の川久保善智先生が全員の紹介後、篠田先生が佐賀県は吉野ヶ里遺跡を含めたくさんの弥生文化が残っているので、それにちなんでこのタイトルにしたと紹介。

 考古学の藤尾慎一郎(国立歴史民俗学博物館教授)さんが最初に登壇し、「弥生人の考古学的プロフィール」
と題して講演。はじめに韓国などから九州地方に伝えられた稲作文化は、愛知県の真ん中当たりで一旦とまり、その後何年かしてから東北地方にまで及んで行ったと解説。稲の作り方としては沖縄や北海道には伝わらなかったので、本州、四国、九州にだけ広まった文化だということ。また、その伝わり方は九州を起点に日本全体に行き渡るのに時間がかかっているので、それ迄の縄文文化がのこったままの地域もあり、時間的には同じ時代に同時多発的に弥生時代になったのではないと指摘。しかし、弥生時代はあくまでも弥生時代なので、縄文の土器が使われていた○○地方の弥生時代、という言い方が最も正しいし、考古学者により、弥生時代の区分については意見の相違があるので、はっきり言って考古学会としては弥生時代について固定された考え方が無いとも指摘。つまり、一応、縄文時代、弥生時代、古墳時代と区切って入るものの、地方的な差違を考えると学者により見解の相違があるので、地方ごとに弥生時代を個別に考え、時代区分しているということらしい。

 次に登壇したのは、岡崎健治(島根大学医学部・助教)さん。こちらは、「人骨の形態から知る初期稲作農民の姿」と題しての講演。稲作の期限は中国の長江デルタ地帯で、最初から米の生産が行われた訳ではなく、ひえやあわなど雑穀の生産、米の生産が原産種の段階であった。気候の変化があり、当初は雑穀の生産がさかんだったが、後に米の生産の方が有利となったので、途中から切り替わったようだ。米そのものが中国から日本に直接伝わったのか、韓国経由だったのかはついては現在の段階では不明のようだ。

 最期に「DNAから見た弥生人」というタイトルで、篠田謙一(国立科学博物館副館長・人類研究部長)さんの話。佐賀県内で発掘される甕棺墓は韓国製なのか、日本製なのかはっきりしないらしい。人骨を入れるものなのでかなり大きなものだから、船にのせて持ってくるのは大変だと思われる。また、葬儀方法も同じ九州とはいえ、地域により全く異なる。福岡平野から発掘されるのは屈葬、伸展葬が多く、佐賀平野からは甕棺墓などが多いとなると、これは福岡と佐賀には異なる民族(種族)の弥生人がいたことになる。では、その人たちは、弥生人として、外来種なのか、縄文との混血になるのか?結果的には混血といえるが、最近のDNAの検査では、縄文の形質を含んだ弥生人が九州で発掘されていたが、極最近になり、韓国での調査が出来るようになると、韓国にも九州で発掘された縄文形質のある弥生時代の人骨が発掘されていた。では、韓国出土の人骨を日本のような縄文の形質がある弥生時代人と呼べるかという問題が出て来た。韓国側の研究者の意見では、それは駄目だよ。ということになるらしい。なぜなら、韓国側にしたら、そもそも韓国には縄文人という名前が存在しないから。もし名前をつけるなら、韓国側にも考慮して、旧石器時代におけるオホーツク海沿岸に居住した古代人集団ということになるらしい。なるほどごもっともなご意見だ。だが、日本的には縄文時代、弥生時代のほうが分かりやすいので、考え方としては、つまり、弥生時代前半の韓国には、縄文の形質をかなり残した弥生人そっくりの韓国人が居住していた。ということになる。しかもそれなら、日本の中国地方、九州のあちこちで見いだされる初期弥生人の異なる形質人骨は、そもそも、韓国経由の弥生人が日本での縄文人との混血で生まれたものと考えられていたが、そうではなく、そういうこともあるが、また、韓国国内にもいろいろの種族がいて、すでに韓国国内に縄文時代人の形質を多く持った種族、縄文時代人の形質を軽く持った種族、弥生オンリーの種族(長頭、扁平な顔、眼窩が丸形など)がいて、それらの種族が九州の別々の土地にやってきて植民生活をはじめたというシナリオが最近新しく考えられているという面白い話が聞けた。

2019年10月15日

第73回日本人類学会大会

10/12(土)第73回日本人類学会大会 佐賀大学
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名古屋を直撃しそうな塩梅だった台風19号は、瞬間最大風速60メートル、雨量800ミリというものすごい予想を東海地方にくだしつつ、実態はやや東に向きを変えて関東直撃。従ってこの日が初日だった学会の日程だが、飛行機、新幹線ともに全日キャンセルとなり、大会に来たくても来れない人続出となった。
前日11日に佐賀入りしていた私はスイスイと初日から大会入りした。しかしいつものメンバーがいない。
昨年も会えなかった岩本先生、今年春に亡くなった楢崎先生のいきさつを伺いたかった足立先生、人類学会の名物先生、馬場先生、ほかにも住先生や尾本先生、片山先生、百々先生などのほか、昨年も欠席された溝口先生、質問王の鈴木隆雄先生らの姿が見えない。

 初日の最初の教室は「人類学普及委員会シンポジウム」。いつも以上に聴講する人が少ない。
馬場先生の姿も台風のせいか見れなかった。高山先生が随分後から入室されたが、最期に質問された内容は、「本来、もっと来て欲しい中学、高校の先生がたの姿がまるでないじゃないか」だった。

この日は本当に台風の影響がものすごく、予定では発表する予定だった先生方の欠席も多く見られた。
そのことを昼食時間で一緒になった長野看護短期大学の加賀谷先生と話すと、先生曰く、予定していた先生が来れなくなって発表しない場合、後で学会誌ではどう取り上げるんだろうね、そして、実際に発表していない原稿は、次の共同研究者が発表出来れば良いけど、全く発表しなかった場合、問題になるよね、こんどから事前に本部宛にPDFの形で送るなどのことをしてカウントすることも検討しないと行けないな。などの意見が出ていた。
ごもっともな意見だ。さらに私から先生に質問した。今迄に台風で今日のように止めになる危険がある大会ってあったんですか?と、先生は覚えが無いな、つまり、そういうことは無かったとの答えだ。

 午後からの発表では、教室がかなり熱を帯びてよく聴衆が集まったのが『戦没者遺骨収集の実態』に関する話だった。ストーリーテーラーの坂上先生が台風で来れなくなり、代わりに演題に立った篠田先生や、厚労省の役人である坂巻美幸氏の実話に、会場内は5年ほど前の慶応大学での遺骨に関する話以来、人類学者たちに相当な興味を植え付けているようだった。しかし、5年前との違いもある。役割分担もすすみ、厚労省から政府に対する予算獲得といった熱の入れようもあることが分かり、また、遺骨収集には、派遣する時の一般人の中の仕切り役に相当する係と人類学者との軋轢があることなどが分かり、勉強になったといえる。いずれにしても遅々として進まない遺骨収集問題に、どれだけ人類学者が犠牲になり、これからも役割を果たすべきかという問いに対して、篠田先生のアドバイスがあり、一言『ボランティア精神でやるのみ』だった。
                                                                                                   

2019年10月08日

『人は海辺で進化した』

『人は海辺で進化した』
エレイン・モーガン 著
望月弘子 訳
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 いわゆる『アクア説』の本。今迄に何度も読もうと思っていて読まずじまいだったが、ここへ来て急に読みたくなった本である。かなり前からこの本は危険な本、多くの人類学者にとって読む必要の無い本、異端すぎて科学的根拠の無い本というイメージが強くて手に取りたくなかった、と言った方がよくあてはまる。
 ところが読んで行くうちに、あれあれ、なんだか様子が変だ、なかなか面白い、うんうんそういう風にかんがえられるよと、むしろ内容を肯定している自分に気がついた。特に霊長類には皮膚の下に脂肪は無いが人類にはある。うまれたばかりの赤ん坊には産毛がはえており、その毛の向きは泳ぐ時に都合の良いような水流に逆らわない毛の生え方をしている。水のなかでの出産ができるのは霊長類の中で人類だけだ。水中に潜る時、水中眼鏡をはずして潜ると人類はゆっくりした徐脈となり心拍数が落ちる(p.86)。裸でいると水中を泳ぐとき毛のある状態に比べて早く泳げる。など首肯できる点が多くて面白く読めた。ついでにこの作者の本をしばらく読んでみようと思った。
 作者は自分の考えを今迄人類学者が唱えて来た「サバンナ説」に対抗して「アクア説」つまり、「水性人類」と位置づけている。さらに、「ネオテニー説」をも加えて、つまり、動物がいろいろな進化の課程でその生存状況が変化するのにあわせて自分の形態を変化させる場合、子供時代の自分に戻ることによって生存確率を高めるという考え方を含め、3つの理論を同時に解説しながら「アクア説」の優位さを強調している。決して専門の人類学者ではない人の書いたなかなか面白い本に出会った気がする。
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2019年09月29日

『人類の原点を求めて』

『人類の原点を求めて』
アベルからトゥーマイへ
ミッシェル・ブリュネ著
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 これは、2019年現在、人類の起源として最も古いとされる700万年前の古人類化石『トゥーマイ《現地のゴラン語で生命の希望》の意味。(サヘラントロプス・チャデンシス)』を発掘したフランス人ミッシェル・ブリュネの調査記録物語である。日本では東京大学総合博物館長である諏訪 元教授による440万年前のアルディピテクス・ラミダスが1994年に発掘された翌年、1995年にミッシェル・ブリュネによりチャドからアベルが、2001年にトゥーマイが発掘され、一気に人類の起源が300万年さかのぼり、ほぼチンパンジーと人類の枝分かれしたとされる時代迄到達した。当然のことながら発掘したばかりの古人類化石は類人猿や同じ時代(といってもラミダスとは300万年の違いがあるが)の古人類化石との比較分析が必要となり、この関係から諏訪先生とミッシェル・ブリュネ先生との出会いがあった。
 人類の起源をチンパンジーとの分岐年代とされる700万年前と仮に設定したミッシェル・ブリュネ先生の波乱満場の物語が展開する。
 そもそも化石人類が今迄に発見された地域は南アフリカ、ケニア、エチオピアなどどちらかと言えば大地構帯付近や東アフリカが多かった。一方今回のお話の中心はアフリカの中心に近いチャドである。まったく想像できなかったこの地でなぜ発掘が始まったのだろうか?
 人類学者は探検家に似ている。不順な天候の中、道なき道を自力で進む気力と体力が求められる。勿論、科学的な根拠のもとでの発掘。それには運と賭け、しかも必ず必勝するための幸運が必要だ。というと、著者に怒られそうだ。そうではなく、きちんとした科学的根拠を持ち、たゆまぬ信念でくじけそうな意識を奮い立たせ、期待する結果が出せる迄、我慢して頑張る熱意が、最も大切なんだと(P.118)。第2章『チャド』にてには、東アフリカをさけ、中央アフリカで発掘を始めた著者の反骨精神と、科学的知識、人々を統括指導する指導力、実現する迄保ち続ける意志の強さ、などを克明に観察することができる文章が綴られている。
 トゥーマイの科学的検証がすごい。(P.178) 生活環境、生存年代、歯の形、エナメル質の厚み、頭骸骨の外観、脳容量、大後頭孔の位置など。他のほ乳動物や霊長類、近似する年代に生きていた古人類化石とひとつひとつその保管してある場所迄出かけて、具体的に比較調査しているので、一般人のみならず、専門紙「NATURE」の編集者さえ賞賛の声だ。
 まったく読んでいて汗が噴き出すような文章が続く。それは訳出者の訳文のうまさかも知れない。
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2019年09月27日

『霊長類ヒト科のルーツ』

『霊長類ヒト科のルーツ』
ビョルン・クルテン 著
瀬戸口烈司・瀬戸口美恵子 訳
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 人類の起源を語るにあたり、まずは地球の歴史時間に基づいて話は始まる。200ページくらいの厚みの本の50ページくらいが、地球に最初に生まれた生命の話から魚類、両生類、は虫類、鳥類、ほ乳類へと進む。その進化についてはそれぞれの時代に、気候をはじめとする地球規模の変化により、生命が変化・進化してきたとする。
 初期人類の話はゆっくりと進み、次の50ページを費やす。ここで私にとって面白い一説があった。それは、94〜96ページに人類のはだかの起源について、一つの考察がある。ヒトの女性は裸の皮膚の下に脂肪の層をもつこと。
 それは海性ほ乳類としてクジラ、アザラシ、カバなどと同じだ、という意見。さらに、生まれたての赤ん坊は、最初全身にびっしりと毛が生えているが、まもなくそれは消失する。ところが、その生えていた毛のそれぞれの向きは、水泳中に皮膚の上を水が流れる方向と一致する、という。何らかの経緯が無ければこうした毛の生え方はしないとすれば、『アクア説』を指示する意見に思われる。また、女性の処女膜が、他の類人猿には存在しない一方で、水性のクジラやアザラシに見られるという、その解剖学的理由は、膣に水が入り込まないようにする役割があるという。非常に面白い意見にびっくりしている。何らかの理由が無ければ存在しないものが存在するというのは、それがあるときには、必要であったから・・・と私は判断する。
 170ページに多地域進化説を思わせる理論が展開していた。ホモ・サピエンスと原人との接触が世界の各地であったかも知れないとする考え方で、アジアの場合、現在までに発見されている原人以外の種類が存在していた可能性とそれらとホモ・サピエンスとの接触という場面がありうるという。さらにもしそういう機会があれば、
『たとえば、北京原人の歯の構造と形には、「モンゴル人的」特徴をみつけることが可能であり、ある密接な関係を示唆するにちがいない。』と記述されている。歯の「モンゴル人的」特徴とはなんだろう?私は、「第三大臼歯の欠落」と「シャベル型切歯」だと思った。「第三大臼歯の欠落」は、名古屋で『人類誕生400万年展』が開催されたとき、中国科学院から呉汝康先生が来日され、一般人、歯医者、専門家を含む討論会が名古屋国際センター1F会議室で開催されたとき、ある歯科医が質問した問いに、答える形で呉先生の口から北京原人は第三大臼歯が欠落している、と回答されたことを覚えている。ならば、原人段階から、この東洋人、つまり、モンゴル人に特有な形質が見られ、現代人にもその傾向がみられるのは、著者の言わんとすることなのではないだろうか?と思われた。
 「第三大臼歯の欠落」問題は、東洋人と西洋人、また、黒人を区切る問題で、現代人に観察される訳で、しかもその傾向が原人段階から見いだされることは、なんらかの接触がホモ・サピエンスと原人とにあったと解釈したほうがわかりやすい。
 いま、DNAの処理がすすみ、アフリカ起源の単一起源説が謳歌しているが、ならば、アフリカ起源のホモ・サピエンスでもなぜかアジアに来るとまたもや「第三大臼歯は欠落」することになるのだろうか?この疑問に対して、クルテンのおおような見解に私は大賛成だ。

 
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2019年09月16日

サピエンス物語

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『サピエンス物語』(OUR HUMAN STORY)
ルイーズ・ハンフリー&クリス・ストリンガー著
山本大樹 訳
篠田謙一&藤田祐樹 監修

 訳文がよく大変読みやすい。次にまるで人類博物館に入ったような具体的で分かりやすい解説が気に入った。
大英博物館での陳列をそのままカタログにしたような本という感じ。
 1990年代から2019年までの30年間に新しく発見された古人類は多く、それ迄に発見された古人類との関係図は研究者の立場の違いもあり、読む本ごとに異なるが、ここではイギリス風の考え方でまとまった意見が掲載されている。茶ノ木ばたけに入り込むような景観をみせている人類の系統図を本の初めに(P.18-19)登場させて、その後につづく個々の発見古人類との関係を把握しやすくしている。

 目次にそってながめると、アウストラロピテクス以前の古人類として、
サへラントロプス・チャデンシス、
オロリン・トウゲネンシス、
アルディピテクス・ラミダス、
アルディピテクス・カダッパ、を解説。
 次に華奢型のアウストラロピテクスとして、
アウストラロピテクス・アフリカヌス、
アウストラロピテクス・セディバ、
アウストラロピテクス・アナメンシス、
アウストラロピテクス・バーゼルガザリ、
ケニアントロプス・プラティオプス、
アウストラロピテクス・デイレメダ、
アウストラロピテクス・ガルヒ、を解説。
 次に頑丈型アウストラロピテクスといわれる、
パラントロプス・エチオピクス、
パラントロプス・ロブストス、
パラントロプス・ボイセイ、を解説。
いままで『クルミ割り』と言われていた顎、大臼歯の大きさ、矢状稜の存在について、著者は同時代に生きていた同種のアウストラロピテクスに食域を犯されて、それまで以上に苦労して繊維質の食べ物をたくさん食べた結果が、こうした体質的な特徴になったと、最近明らかにされた歯垢や歯の成分分析の結果から割り出した研究結果をもとに解説している。
 次の章では原人にあたる種類を解説。
ホモ・ハビリス、
ホモ・ルドルフェンシス、
ホモ・エレクトス、
ホモ・ナレディ、
ホモ・アンテセソール、
ホモ・ハイデルベルゲンシス、
ネアンデルタール人、
デニソワ人、
ホモ・フロレシエンシス、を解説。
 最終章で
ホモ・サピエンスを解説。

科学者であり、イギリス人である研究者である著者が、これらいくつもの古人類を研究するにあたり、
他の国の研究者と異なる意見をもち、それ故に、納得出来ない時は、あえて他の研究者は・・・と
考えているが、私は現在、・・・と考えている。という表現があちこちで見られる。
それだけ、まだまだ古人類の名称は完全に定着していないので、今後も分類されるされ方に移動があると考えたほうがいい。

 ミランコビッチ・サイクルという氷河期と間氷期のサイクル表が明らかにされており、これによると
人類は氷河期に大変苦労して生き伸び、間氷期に子孫の数を増やしたようだ。この表では、現在がその間氷期の最も暖かい時代に当り、まもなく寒さの極まる時期に入ることになる。それは、マスコミの言うところの二酸化炭素による温暖化効果とはまったく異なる意見だ。イギリスでは氷河期に126メートル海水面が下がり、大陸と陸続きになったという。日本では日本海が120メートル下がり、やはり南北の日本列島が大陸と陸つづきになることが旧石器時代にあった。オーストラリアやタスマニアも同じように東南アジアと陸つづきになったことがある。
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2019年09月11日

異説「弥生人考」

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歴史読本特別増刊
シリーズ「日本を探る」
日本人の起源を探る。
平成六年一月十日発行

異説「弥生人考」
池田次郎 著

 弥生人が大挙して西日本に押し寄せて来た時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代に焦点をあてて、日本人が縄文人から弥生人に変化したとすると、形態的には大挙して到来した弥生人の影響が大きかったといえるのかどうか、という点から考察した論文。
 
 日本人の骨の形態が大きく変化したのは、縄文時代から弥生時代に移った当たりの他、室町時代に長頭、長身が認められた時代がある。また、明治時代から昭和時代にかけては、長身化が見られるし、室町時代以降は全世界的に短頭化が見られる。

 では、どうしてそうした時代エポックに、特徴ある骨の変化がみられるのかを、いろいろな資料を持ち出して論じたものだが、決定打に欠けて説得力がなく文が終わっている。また、結論的な意見として、池田先生は、弥生時代の骨の変化を、多くの弥生人の到来に帰結するとは考えておられない。それは地域的、歴史的、気候的な産物に近いという考えのようだ。

 弥生時代以降、骨の処理は燃焼する方法がとられており、現在迄に残され、発掘された骨を調査する場合、
焼ける前の状態を推理するしかないため、また、地理的に骨の発掘される地域が限定されるため、調査出来る資料に限定されるので、断定出来る資料に欠けていて結論できにくいということもあるようだ。
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2019年09月10日

日本人のきた道

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『日本人のきた道』
池田次郎 著
朝日選書 刊

 池田先生の出版された本は少ない。講談社現代新書から出版された『日本人の起源』をさらにくわしく、もっとたくさんに書かれたのが本書『日本人のきた道』である。池田先生の日本人の起源に関して一言でいうなら、日本列島には地域ごとに異なる文化がある、といえようか。
 大きく分ければ、旧石器時代から縄文時代にかけて、大陸からは、主に、北方ルートで、弥生時代になると、
朝鮮、中国から米の文化を主に、埴原先生の日本人二重構造説的にドカンと九州方面に大量の外来文化が届いた。
いっぽう、沖縄など先島諸島を通じても若干の異文化が届いており、ざっと北、南、中央ルートの3ルートを設定出来るという。が、あくまでも、縄文時代には東日本のほとんどは北からのルートでヒトの流入があったという意見。だから、関西から九州は弥生時代に多くの大陸人がやって来たとはいえ、がら空き状態だったから、縄文人の形質があっという間に弥生の形質に変化出来た。だが、東日本や東北地方では、縄文人の割合が多く、弥生文化が届きにくかったこともあるし、弥生文化を持った大陸の人々が土着縄文人と結合する割合が少なく、縄文の形質を残した人々が現在迄西日本に比べて多くなった、という意見。

 なので、もっといえば、秘密のケンミンショーに見られるような日本人の中の県民別の違いが、歴史を通してそれぞれ別々に作られて行ったといえる。そこでは、弥生の強い文化性を九州、中国、近畿地方の人々が受容し、徐々に東進して青森など東北地方に迄たどり着くのだが、県別、地域別に、または、漁村別、山村別に個性的な文化も存在したという。特に都市から離れた漁村や、米をつくる集落からさらに遠く、深く離れた山村では、米の生産よりも狩猟採集に近い生産形態を長く続けた結果、都市部とは格差を生じた文化が成立したとする。

 その例証を歴史時代にまで繰り広げて記述されているので、350ページの内容に結実した模様だ。
なかでも、この本のあちこちで長野看護大学の加賀谷昭先生の名前が登場する。資料などの整理にかなりのお世話になったとあとがきにもある。今度の学会で(2019年度佐賀大学にて)いちど、この本の成立に関して、加賀谷先生に質問してみよう。
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